あれは、引っ越してきて初めての夏のことでした。古いアパートだったせいか、どこからともなく小さな虫が現れるようになり、私は意を決して燻煙式の殺虫剤、バルサンを焚くことにしました。説明書は一通り読み、ペットもいない一人暮らしだったため、準備は比較的簡単でした。火災報知器にカバーをかけ、戸棚を開け放ち、いざ点火。説明書には「速やかに室外へ出てください」と書いてありましたが、煙が充満し始めるまで少し時間があるように感じました。玄関のドアを開けたまま、ほんの数十秒、忘れ物がないか部屋を見渡していたのです。その時でした。ふわりと甘いような、それでいて化学的な独特の匂いが鼻をつき、直後に喉の奥にイガイガとした強い刺激を感じました。慌てて咳き込みながら外へ飛び出しましたが、時すでに遅し。避難先として考えていたカフェに着く頃には、軽い頭痛と吐き気まで催していました。たった数十秒、煙を直接吸い込んだわけでもないのに、これほどまでに体調に影響が出るとは思ってもみませんでした。あの時感じた喉の不快感と頭痛は、バルサンの効果がいかに強力であるかを身をもって教えてくれました。そして同時に、説明書に書かれた「速やかに」という一言の重みを痛感したのです。幸い私の症状は数時間で治まりましたが、もしあの場にもっと長く留まっていたら、あるいはアレルギー体質だったらと考えると、今でもぞっとします。この経験以来、私はバルサンを使う際は、点火したら一目散に外へ出ることを鉄則としています。大丈夫だろうという油断は禁物です。安全な害虫駆除は、説明書を遵守することから始まる。私の苦い後悔が、誰かの安全に繋がることを願っています。